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能代丸 (特設巡洋艦) : ミニ英和和英辞書
能代丸 (特設巡洋艦)[のしろまる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よく, のう]
  1. (adv,n,vs) being skilled in 2. nicely 3. properly 4. well 5. skillfully 6. thoroughly
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 
特設 : [とくせつ]
  1. (n,vs) setting up specially 2. special installation 
巡洋艦 : [じゅんようかん]
 (n) cruiser
: [かん]
  1. (n,n-suf) warship 

能代丸 (特設巡洋艦) : ウィキペディア日本語版
能代丸 (特設巡洋艦)[のしろまる]

能代丸(のしろまる)は、かつて日本郵船が所有し運航していた貨物船太平洋戦争中は特設巡洋艦、特設運送船として運用された。
==概要==
能代丸は日本郵船のニューヨーク航路改善のために投入されたN型貨物船の四番船として、三菱長崎造船所1933年(昭和8年)12月7日に起工し1934年(昭和9年)6月28日に進水、11月30日に竣工した。日本郵船はN型貨物船の建造に際して第一次船舶改善助成施設を活用し、能代丸の見合い解体船として自社持ち船の中から、日本最初の1万トン超貨客船の一隻である「天洋丸」(13,041トン)を充当した〔#船舶改善助成施設実績調査表p.2,5〕。12月下旬からニューヨーク航路に就航し〔#大毎340807〕、往航では生糸や雑貨、フィリピン産のマンガン鉱などを積み取り、帰航では鋼材や綿などを積み込んで横浜とニューヨークの間を28日間で走破した〔#日本郵船株式会社百年史pp.325-326〕。しかし、1939年(昭和14年)の第二次世界大戦勃発など世界情勢の変化により、遠洋航路は徐々に縮小されていった。
1941年(昭和16年)5月1日、能代丸は日本海軍に徴傭され、次いで7月1日付で特設水上機母艦として入籍、横須賀鎮守府籍となる〔#特設原簿p.116〕。ところがこの時点で、日本水産所有で同名の216トンのトロール船が日本海軍に特設掃海艇として徴傭され在籍していたため、後に入籍した能代丸は7月10日付で便宜上、海軍内部でのみ「能代川丸」と呼称されることとなった〔〔#正岡p.74〕。7月1日から8月19日まで横須賀海軍工廠で艤装工事が行われたが、特設水上機母艦として使用されることがないまま8月20日付けで除籍され、9月20日に特設巡洋艦として入籍〔〔。この入籍を機に、トロール船のほうは第二号能代丸と呼称されるようになった〔。特設巡洋艦当時の兵装は、15センチ砲4門、8センチ高角砲1門、7.7ミリ機銃2基および水上偵察機2機だった〔#山高pp.240-241〕。工事竣工後は横須賀警備戦隊の旗艦を務め〔、1942年(昭和17年)4月10日からは新編成の第二海上護衛隊(茂泉慎一中将)に属して輸送船護衛に従事する。しかし、能代丸が特設巡洋艦として行動した期間は短く、8月5日付で特設運送船に類別変更され、10月19日から10月24日まで横須賀海軍工廠で特設運送船としての艤装工事を実施した〔。
特設運送船となった能代丸は輸送作戦に従事し、11月3日に東京湾を出港してサイパン島テニアン島およびトラック諸島を経由してラバウルに進出〔#郵船戦時上pp.896-897〕。ラバウル停泊中の1943年(昭和18年)1月16日には空襲を受け、四番船倉に命中弾があり損傷する〔#郵船戦時上p.897〕。応急修理のあと、1月下旬から2月にかけてはショートランドあるいはコロンバンガラ島への輸送に任じ、任務を終えてラバウルに帰投後、3月12日にトラックに向けて出港する〔。しかし、翌3月13日午後にの地点を航行中、アメリカの潜水艦グレイバック (''USS Grayback, SS-208'') に発見された〔〔#SS-208, USS GRAYBACKp.237〕。グレイバックは魚雷を4本発射し、1本が船首をかすめ他の3本のうち1本が右舷五番船倉付近に命中して損傷した〔〔#SS-208, USS GRAYBACKpp.237-238〕。トラックでの応急修理のあと、サイパン島を経て6月19日に横須賀に帰投し、7月21日まで本修理が行われた〔#郵船戦時上pp.897-898〕。
このあと1年近くの動向はほとんど不明だが〔例えば、#郵船戦時上p.898 では、昭和18年7月21日の修理完了からヒ71船団加入にいたるまでの動向については全く書かれていない。〕、1944年(昭和19年)に入って南方に進出し、ボーキサイトを搭載の上ヒ62船団に加入〔#能代丸1906p.38,41〕。5月23日に昭南(シンガポール)を出港し、マニラを経て6月8日に六連に到着した〔#駒宮p.180〕。三菱横浜造船所で修理のほか、機銃の増備や逆探の装備が行われ〔#能代丸1907p.47〕、修理完了後は門司に回航され、ヒ71船団に加入する。8月10日、ヒ71船団は伊万里湾を出港し、馬公を経て南に下る。しかし、8月18日夜から8月19日未明にかけて3隻のアメリカ潜水艦、ブルーフィッシュ(''USS Bluefish, SS-222'') 、ラッシャー (''USS Rasher, SS-269'') 、スペードフィッシュ (''USS Spadefish, SS-411'') の攻撃に遭い損害を出した。ラッシャーが最初の攻撃で空母大鷹を撃沈し〔#駒宮p.226〕〔#SS-269, USS RASHER_Part1pp.291-293〕、続く二度目と三度目の攻撃で海軍徴傭船「帝亜丸」(帝国船舶、元フランス船アラミス/日本郵船委託、17,537トン)を撃沈〔〔#SS-269, USS RASHER_Part1pp.294-295〕、能代丸は警戒を厳重にしていたがの地点にいたったところでラッシャーの四度目と五度目の攻撃を受けてしまう〔#能代丸戦闘詳報p.60〕〔#SS-269, USS RASHER_Part1p.296〕。ラッシャーは魚雷を計6本発射し、そのうちの1本が能代丸の二番船倉左舷側に命中〔。相前後して海軍徴傭船阿波丸(日本郵船、11,249トン)の船首にも1本が命中し、ともに陸岸に近接してマニラに向かった〔#駒宮pp.226-227〕。損傷により4ノットから5ノット程度の速力しか出せなくなった能代丸はルソン島沿岸の泊地に立ち寄りながら南下を続け、8月24日にマニラに到着した〔#能代丸戦闘詳報p.63,69〕。
マニラに到着後、能代丸は応急修理を行い、9月17日ごろには概ね完成して日本本土行きの船団を待っている状況だった〔#郵船戦時上p.898〕〔#能代丸1909p.3〕。ところが9月21日、アメリカの第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)からの艦載機群がマニラを空襲し、能代丸の艦橋付近に至近弾を、艦橋部に命中弾を与えた〔。間もなく別の一弾が短艇甲板を貫通して機関室で爆発し、火災が発生した〔。火災は弾薬や油類のある区画に広がり、ここにいたって総員退船が令されて乗組員が脱出したのち、夜に入って大爆発が起こった〔#郵船戦時上p.899〕。火災は9月22日、23日と続いて船体中央部をほぼ全焼して船体外板も甚だしく損傷、9月24日に船尾から沈降して水深12メートルの海底に沈没していった〔〔#能代丸1909p.5, pp.41-42〕。沈没地点はマニラ港南防波堤南灯台の188度1,800メートル、の地点と記録されている〔〔#能代丸1909pp.5-6, p.36〕。能代丸は11月10日に除籍および解傭された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「能代丸 (特設巡洋艦)」の詳細全文を読む




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